今、手元にAさんからの抗議文のコピーがある。論文不採用に対するものである。恐ろしくて読み返すことが出来ないでいるのだ。何でこんな目に遭わねばならないのだと自問自答しつつ、つくづく雑誌類の編集とは厄介なものだと思った。
『○○の考古学』の刊行計画ができ、その時の研究委員が自動的に編集委員となったのだが、一委員として編集や論文採否の検討会に加わって、いろいろと考えさせられることが多かった。幸い皆さんの努力で印刷も順調に進んでいるが、いくつか書き残しておきたいことがあるので記す。
第一は、論文の書き方について。これは論文の内容、姿勢、思想とかのレベルの問題ではなく、単なる書き方についてだ。起承転結とか、1:問題の所在、2:研究史、3:類例、4:考察、5:課題といった常識的な論文構成(帰納法の場合だが)について、まだ身に付いていないものがあった。加えて、言い回しの問題。論文は紀行文ではない。いわんや小説やエッセイではないのだ。個人の文体を尊重することは当然だが、論文には論文の言い回しというものがあろう。身内の事情の延々とした記述や、推理小説ばりに謎解きを進めるような饒舌表現(…読んでいて疲れちゃった)。こういうのは内容以前の問題で、そんな要素が多い原稿を前にして、委員は皆「これは投稿する雑誌のジャンルが違うなあ」などと困ってしまったのだ。「考古学を易しく」という主張は一般向けの時であって、本誌も一応専門誌と位置付けているのだからやはり論文らしい言い回しは必要だろう。
第二も基本的なことだが、論文とは何かということを理解して書かれているかどうか。そもそも論文とは、自らの主張を第三者の研究者に、客観的に理解させることを目的とする。そのためには、問題に対する過去の業績を調べ、類例を調べ、データを提出して、自ら下す評価を定めねばならない。いかに客観性を立証するかの態度が大事なのだと思う。確かに厳密に言えば自然科学においてすら純粋な客観性などはないのだが、それは哲学や「科学の社会学」が扱うテーマであって、今、考古学での議論は必要あるまい。というわけで残念ながら、執筆者の熱意や思い付きの素晴らしさとは全く関係なく、むしろ、焦点はいかに第三者を納得させられるかにある。その要件は、導き出した結果よりも過程の手続きの適正さ、であろう。この点で、私個人として不満が残った原稿はいくつかあったし、「これはまずい」と思ったものもあった。当人はよく説明しているつもりでも、仮説の上にさらに仮説を構築したり、説明が説得になっていたりしたのも問題だ。
最後に論文の採否について。この問題では、委員一同、本当に心を痛めた。特に委員長と事務局幹事は胃を切る羽目になるのではと心配した。誰が好き好んで人の力作を不採用にしたいものか。特に、誠に失礼な表現だが、当落線上に引っかかった原稿にこそ、一読して執筆者の熱意がひしひしと伝わってくるものが多かった。だから引っかかってしまった理由は、委員それぞれに意見はあったろうが、私が考えるところ上記に掲げた第一、第二の問題が主だと思う。誠に残念なのだ。「このテーマで、この内容なら、もっと異なった構成や論法をとれば素晴らしい論文になるのに」とか「私ならこんなふうに書くのに」とか何度も思った。またテーマが大きすぎて消化不良を起こしていると感じるものもあった。「この内容だったら、全国、せめて中部地方くらいの類例を集成して分析しなきゃ説得力ないな。」「だったら規定の頁数に収まらないよ。」この発言は地方でコツコツ取り組んでいる研究者には酷かもしれないが、一応、常道なのだろう。
終わりに、考古学の論文はどうしても帰納法的な方法になってしまい、演繹法的な表現の訓練がされていないと自戒する。私は仮説なら仮説でよいのだと思う。むしろ仮説をあたかも立証されたもののように論に組み込んで発展させてしまうから混乱が生ずるのだ。「私は仮説を提出する。その仮説は、次に述べるA〜Jまでの作業仮説が立証された時に検証されると考える。以上。」というくらい簡潔で要を得ている論文は出てこないのだろうか。自分が書けないのに、敢えて言わしてもらった。
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