1991年8月14日 理想主義か愚民政治か



 
アキ缶を投げ捨てる奴が絶えない。町中に、およそ芸術性など感じられないような空き缶が散乱している。困ったものだ。私は、一生懸命、空き缶片付けを続けている人や子供たちを知っているが、一方、平気で投げ捨てる業界の人達とも親しいつき合いがある。自分のできる限りで空き缶を回収してはくるが、面と向かって注意もしにくい場所にいる。これも困ったのもだ。


  私は車の運転は大嫌いなのだが、日常生活を送る上で仕方なくやっている。そうしていると、大なり小なり、さまざまな違反、ルール無視、ずうずうしさ、無神経さ、無計画さが目について、ますます嫌気がさしてくる。
  大きな乗用車に一人乗り。一寸した買い物に、道の端にデンと止めて交通の迷惑。狭い駐車場に頭から突っ込んで、バックでそろりと出てきて交通の流れを乱す。道が狭くて危ないのなら小さなクルマに乗ればいい。道が混雑して駐車が難しいところに買い物に行くなら、クルマで行かなければいい。せめて横付けを欲ばらないでほしいのだ。

  しかし、クルマは増える一方。クルマ社会のルールは乱れる一方。排気ガスの問題も大きくなって大型トラックの制限を叫ぶ市民の自家用車は今、流行のオフロードタイプ、ディーゼルエンジンだったりする。どこまで贅沢をすれば、楽をすれば気が済むんだ。何台クルマを作って売り込めば気が済むんだ。


  私たちは自分自身で社会を正していく事はできないのだろうか。一人一人が道徳や常識を弁え、譲り合っていく社会というのは古代から理想とされていたが、できた試しは一度とてない。心正しきごく一部の人が政権を執った時に制度として僅かに敷衍されたに過ぎない。しかも心正しくいるには、大多数の人はそれなりのゆとりを持っていないと不可能だ。利潤追求、日々の糧を稼ぐという興味関心から目を転じることができて、その行為が如何に正しいか、如何に見られているかを考えるゆとりが必要なのである。
  だが、そのゆとりが有ったところで、今の日本を見ていると、どうやらダメだ。自分の今日の安楽ばかり夢見て、その結果として起こる明日の苦労、子孫が受け継ぐ苦難を忘れている。


 「小国寡民、什伯の器あれどもこれを用いざらしむ。」とは老子の言葉だが、そんなふうに管理してもらわないと、我々は自分の尻も拭けないのであろうか。環境汚染も食品添加物もないが、食糧難や過度の供給もない。贅沢や安楽に走ることはできず、生活に必要なだけの食料・衣料、住宅、そして医療。ヒト属ヒト科の動物が如何に後世も宇宙船地球号で生き永らえていくかのみを問題にするなら、まさに小国寡民だ。実際、我々の暮らしの便利さなるものは、ひとつ残らず、遠い将来の子孫には害になるものばかりだ。
  まったく公正で、思慮深く、洞察力に富んだ計画的な頭脳を持ったコンピューターが完成して人類の面倒を見ることになったら、彼は即座に地球上から人類抹殺の指令を出すか、さもなくば安全回路が働いても、現在、便利といっているものすべてを取り上げにかかるであろう。そんなことは自明の理だ。問題は、人間がそんなふうに強制されなくても理想を具体化する節度を持ち合わせるか、ゼンゼン駄目か、にある。たぶん駄目だ。


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